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九戸城跡
更新日
2020年3月11日 更新
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九戸城跡
市の中心部にある九戸城跡は昭和10年に国の指定を受けた史跡です。この城は九戸政実の4代前の光政が築いたとも言われ、豊臣秀吉天下統一の最後の合戦場となりました。城跡には、東北最古とみられる石垣遺構が残っています。
更に詳しい内容はこちら
日本中世終焉の地-国指定史跡 九戸城跡
教育委員会文化財課ページヘリンクします(別ウィンドウで開きます)
九戸城跡の整備工事に伴う園路の一部通行止めについて
現在、令和3年度史跡九戸城跡整備工事に伴い、園路等の一部通行止めを実施しています。
工事内容の詳細等は、リンク先の教育委員会文化財課から確認願います。
九戸城(福岡城)の特色・構造
九戸城には、東北地方の中世の城と近畿地方の近世の城の特色が見られます。地形を活かし曲線的な九戸城の中に直線的に改修された福岡城の部分があります。
三方を川に囲まれた平山城で、約36万m2(指定地21万m2)、東京ドームの約10倍です。
九戸城旧来の姿を留めるのは若狭舘・外舘等で、本丸は改築された福岡城であることが解っています。本丸は二ノ丸より一段高く土を盛って築かれており、この盛り土から焼けた生活用品や火縄銃の弾丸が出土し、明らかに合戦後の整地です。堀沿いに土塁と石垣が巡り、土塁の高く広い部分は隅櫓跡です。東の追手門は、門と木橋があったところで、南にも二ノ丸と地続きの虎口があります。二ノ丸は、本丸の東と南を囲む形で築かれ、周囲に土塁、南に大手門、北には搦手(からめて)門があります。本丸の西側下は三ノ丸で今は市街地です。松ノ丸は、人工の堀で囲まれ、土塁の一部が残り、南東には武家屋敷の在府小路に面して大手門があります。
九戸城(福岡城)の歴史
政実の4代前の光政が明応年間(1492~1501年)に築城したと言われ、その後九戸氏は着実に勢力を拡大します。
天正8(1580)年三戸城主南部24代晴政が死去。晩年まで嫡男が無く、一族の田子信直(たっこのぶなお)を後継者に指名。しかし、男子(25代晴継=はるつぐ)誕生後は信直を嫌い世継ぎを撤回。晴政の死後、南部は跡目を巡り、信直支持派と晴継擁護の九戸一派とが対立。晴継も13才で謎の死を遂げ、混迷の中、信直が南部26代目を継ぎます。
天正18年、秀吉は小田原城攻略後、奥州仕置を開始。小田原不参陣の諸氏を追放しますが仕置軍が去ると残党が蜂起し、奥州地域は不穏な状況でした。
この機に乗じ政実は翌年3月に挙兵。信直は苦戦を強いられますが、9月1日には奥州再仕置軍が馬淵川流域に到着。6万騎を敵に籠城軍は5千人。
しかし、苦戦と疲弊の上方軍は4日、九戸氏菩提寺の和尚を使者に、政実の武勲を称え、婦子女や下級武士の助命を条件に和議を勧告、政実はこれを呑み開門しますが、これは謀略で、悉く撫で斬りにされ九戸城はあえなく落城。政実らは、宮城県三迫で処刑、九戸神社と首洗いの池が残っています。
これにより、秀吉の国内統一は完了し、名実ともに配下の大名となった信直に、和賀・稗貫・志和の三郡を加封、蒲生氏郷に命じ、九戸城を豊臣流の城に改修しました。
信直はこの城を福岡城と改め南部の本拠地としました。その子重直が盛岡城に本拠を移し、その後、寛永13(1636)年に廃城となりました。
現在市では公有化と発掘調査を進め、文化庁や整備指導委員会の指導の下で史跡公園化を進めています。
九戸城航空写真
必見スポット
馬淵川の断崖と岩谷観音堂・千補陀堂建立碑
城の北西隅で、白鳥川と馬淵川の合流点。近世の街道筋で「馬助坂」や奥州三十三観音巡りの札所「岩谷観音堂」や合戦の戦没者を密かに弔った「千補陀堂」の建立碑、「追分石」などの文化財が集中しています。
白鳥川の断崖
二ノ丸溺手から掘底道を北へ向かうと白鳥川の断崖を眼下に望む所へでます。九戸氏が九戸村へ往来した道が斜めに降りる所で「難攻不落」が実感できる景観です。
土井晩翠の歌碑
昭和14年林檎狩りに訪れた晩翠は、九戸城の悲劇を聞き自ら筆をとり「荒城の月」の書を残し帰りました。それをそのまま刻んだ碑です。繊細な書体と哀愁を帯びた文体は古城に相応しいものです。隣はローマ字の先駆者、田中舘愛橘博士の「九戸城懐古の詩」の碑で、これも漢詩とローマ字の読み下し文を刻んだ珍しいものです。
本丸隅櫓跡
城跡で最も標高が高く眺望がすばらしい。見渡すと城の構造がよくわかり、上方軍が布陣した山並みも望め、鬨の声や狼煙が上がった合戦の様子が蘇ります。
本丸の石垣
城郭の石垣では東北最古、野面(のづら)の古式穴太(あのう)積の石垣は蒲生配下の穴太衆によるものとされ、肥前名護屋城(佐賀県)や会津若松城(福島県)に共通する様式です。
呑香稲荷神社境内
松ノ丸跡の西の腰郭にある神社は、かつての県社で由緒ある神社です。神楽殿や大作神社、稲荷文庫と槻陰舎など文化財が集中しています。また、松ノ丸跡南端、忠魂碑脇を降りる道の切り通しは、松ノ丸造成時の断崖が視察できる箇所です。南側は人造の空堀、すさまじい断崖です。
九戸城跡に関するQ&A
Q
:なぜ二戸市にあるのに九戸城なのでしょう?
A
:
九戸氏の居城=九戸城です。もとは現在の九戸郡を治めた南部氏の一族が九戸氏を名乗り、その後九戸の地と福岡地方を同時に統治するようになりました。
Q
:なぜ史跡の名称は福岡城ではなく九戸城なのでしょう?
A
:地元の九戸氏への強い思い入れです。百年以上治めた九戸氏に対し、南部公は短期間で盛岡へ移った事や、九戸方の悲壮な最期を目の当たりにした人々の思いは、謀反人であっても密かに弔い続けた事を記す古碑にも現れており、あえて「九戸城」と呼び続けたのです。
Q
:九戸城に天守閣はあったの?天守閣の復元はするの?
A
:現在復元の予定はありません。今の姿は福岡城ですが、発掘調査では瓦の出土も無く、天守や櫓があったか不明です。それより前の九戸城にはおそらく板葺きの櫓がありましたが、絵図等も無く場所が不明です。建物の復元は確実な考証が必要で、確実な建物は礎石を残す本丸の門と橋で、こちらが復元される可能性はあります。
Q
:石垣のある堀には水はあったのでしょうか?
A
:空堀です。本丸と二ノ丸の間の堀は、豪雨があっても地盤の水はけがよく、水はたまりません。
Q
:上方軍の謀略撫で斬りは本当ですか?
A
:二ノ丸跡の発掘調査で首を刎ねられて無数の刀傷を負った女性を含む複数の人骨が出土しており、実際に撫で斬りにされたと思われます。
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商工観光流通課
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