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二戸市の観光(観光ビジョン、概要)
観光ビジョン、概要、地名の由来、二戸の先人
二戸市観光ビジョン
平成28年3月 二戸市観光ビジョンを策定しました。
(詳細はページ下よりダウンロード)
概要
 二戸市は、岩手県内陸部の最北端に位置し、青森県と接しています。奥羽山脈と北上山地の間を流れる馬淵川が市の中心部を北流しその河岸段丘に市街地が拡がっており、JR東北新幹線と国道4号線が南北に並行して走っています。

 清流、馬淵川をはさんで断崖と巨岩がそびえたつ馬仙峡は県北随一の景勝地で、馬淵川の河岸にそびえる男神岩・女神岩の二大巨岩と、明神ケ淵の対岸に水蝕をうけてできた断崖絶壁の大崩崖は、多彩な形状を織りなし新緑から紅葉へと清流に映つるさまはまさに絶景です。

 また、四方の展望のきく折爪岳(標高852.2m)は、高山・亜高山系の植物が繁茂し、夏には北東北有数の生息地といわれるヒメボタルの群舞が見られ、自然があふれるすばらしい景観です。

 さらには座敷わらし伝説の残る宿や、金田一京助、三浦哲郎ゆかりのやどなどがある国民保養温泉地である金田一温泉を有するなど、恵まれた自然環境にあります。

 また、有史以前のパレオパラドキシアなどの化石や遺跡が多数発見されているほか、豊臣秀吉の天下統一に当たっての最後の攻防戦が繰り広げられた九戸城跡は、国の史跡に指定されています。
 北海の防備に心身を砕いた相馬大作や、私塾会輔社の誕生、日本物理学の創始者であり、ローマ字の創始者である田中舘愛橘博士など多くの先人達を輩出してきました。

 古くからの城下町であり、交通の要衝地であったことから県北地方の政治経済の中心地として発展してきました。
 平成14年の東北新幹線二戸駅の開業により、北東北の観光の拠点として、活発な交流と連携の取り組みをはかっています。
カシオペアメッセ・なにゃーと
新しい二戸のランドマーク
カシオペアメッセ・なにゃーと
九戸城跡
豊臣秀吉天下統一の
最後の決戦場九戸城跡
地名の由来
 二戸(にのへ)という地名は、昔の牧場制度時代の名残りでといわれています。このことについては諸説があるようですが一般的には次のように言われています。
 その昔、この地方を糠部(ぬかのぶ)と呼んでいた頃、三戸南部の居城である三戸を中心に領内を東西南北の四つに分け、更に南を一戸、二戸、西を四戸、五戸、北を六戸、七戸、東を八戸、九戸と三戸を中心にして九つに区別し、糠部九部四門と言っていました。これが地名のおこりとされています。
 戸は一家という意味ではなく、数戸の集まりで行政上の一単位であったと言われています。
 鎌倉時代初期に南部光行が源頼朝の命を受けて糠部を統治するようになり、六人の子息をそれぞれ一戸、三戸、四戸、七戸、八戸、九戸に配置し支配させていましたが、二戸は鎌倉の御家人であった畠山や佐々木が支配していました。
 鎌倉時代の末期には、馬制も整えられ一ヶ部毎に牧場が設けられ馬の放牧を盛んにしました。その後、幾多の変換があり、近年になってもこの名称が依然として続き、市町村名や郡名に使用されています。
 二戸市の場合、古くは「宮野」と呼ばれていたが、天正19年(1591)九戸戦後「福岡」と改めたが、それが近年まで続き昭和47年市政施行によって、二戸市となりました。
二戸の先人
● 田中舘愛橘
 安政3年(1856)、南部藩士兵法師範の家に生まれ、 幼児期から和漢の教養を身につけました。
 明治15年(1882)東京大学理学部卒業、後に教授となり、日本物理学の創始者 として、純粋物理学のほかに重力・地磁気・地震・度量衡・航空と、 次々に学問の礎を築きました。
 自らの研究のみならず、秀れた後継者を育成したことから、物理学会の 「種まき翁」「花咲かの翁」といわれました。
 また、ローマ字の国字化に深い関心を寄せ、新しい綴り方を発表する など、生涯の事業として心血を注ぎました。
 大正6年(1917)、東京帝国大学名誉教授となり、各種国際学会に多数出席し、我が国の科学を広く海外に紹介し学術の交流に力を尽くしました。
 東洋的な教養の上に西洋風の高度の知性を体得、天衣無縫の行動は幾多の 明るい逸話を残し、昭和19年(1944)文化勲章受章、同27年(1952)5月、95歳で逝去しました。二戸市では田中舘愛橘記念科学館を開設し、その業績をたたえています。
 
田中舘愛橘
● 九戸政実
 九戸政実は、南部氏の祖光行の五男行連を祖とする九戸一族の第24代であり、南部宗家の中でも随一の実力者でした。
 南部家第26代藩主の選任問題をめぐって、政実と、田子城主信直が有力候補となりましたが、強引に信直を選任したことから政実一派が不満を持ち、藩内を二分しての戦となりました。信直は自軍戦力が不利とみると、豊臣秀吉に援軍を求めました。
 秀吉は、羽紫秀次を総大将に上方軍を派遣し、更に近隣諸将にも出動を命じました。その数65,000人にのぼったといわれます。
 一方、政実は5,000人で抵抗し、九戸戦争がおこります。幾多の合戦を経験して来た65,000余の上方軍でしたが、難攻不落の堅固な城壁にはばまれて攻めあぐみ、九戸氏菩提寺の長興寺の薩天和尚を使者として、政実が投降すれば所領や家臣は安堵するという条件で和議を申し入れました。家臣は大反対しましたが政実はいたずらに将士を傷つけることは大将たるものの道ではない、と門城を開いて投降しましたが、これは謀略であり、政実はとらえられ、一族及び城中の子女は二の丸に押し込められ門扉を閉じて焼き討ちにされたといわれます。天正19年(1591)9月4日でした。
 政実は、宮城県三迫まで連行され斬首されました。
● 相馬大作
 本名は下斗米秀之進将真。号は形水。宗兵衛を父とし、寛政元年(1789)福岡に生まれました。
 江戸の平山行蔵に兵法武芸を学び、平山道場の四天王の一人と呼ばれました。父の病気を機に帰郷し、師の果たせなかった北辺の防備のために働く人材を養成しようと、福岡で道場を開き、金田一に講堂、演武場、書斎、射撃場、馬場作り、本格的な文武の教育を続けました。
 彼の仕事に深い理解を示していた、時の藩主南部36代利敬公の急死にあい、 その難しさを悟りました。利敬公に恩義を感じる大作は、津軽の9代寧親公が幕府重臣に賄賂を使い、ついに利敬公と並ぶ官位を得たことに義憤を抱き、参勤交代 の帰路にある津軽公を待ち伏せしました(津軽候要撃事件)が、目的を果たさず 後に江戸で捕らわれ処刑されました。
 しかし、藤田東湖が「将実伝」を書き、吉田松陰は長詩を詠じて、その義烈をたたえ追慕しました。
 
相馬大作
● 國分謙吉
 昭和22年、岩手県初の公選知事となったのが二戸市出身の国分謙吉です。國分謙吉は私立国分農事試験場を創設するなど農業に没頭し、研北の農業改良に尽力したため、農民知事とも呼ばれています。遺髪を納めた追悼碑は市内八幡下の祖霊社に田中舘博士のお墓と並んで建っています。
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本文終わり
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